椋野さんってこんな人

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山田 和茂

元 東京大学クラスメイト 元、三菱商事株式会社(同社の事業投資先であった) 元、富士産業株式会社代表取締役社長

 
椋野さんは、東京大学ではじめの2年間を過ごした教養学部のクラス17D以来のクラスメイトです。クラスの女性は3人だけ、椋野さんはいつも明るく穏やか、更にみんなが頼れる安心感と安定感の有る女性でした。
 
東京大学で多くの時間を共にしましたが、椋野さんは当時未だ注目少ない「福祉の大切さ、弱者を思う、女性の社会進出」などを口にし意識していました。その思いから大学で勉学を重ね、厚生省に進み行政で実践し活躍、内に秘めた意志有る方だと私は常々感じています。
 
私は、数年前に仕事で大分県を訪問した際、地元に戻っていた椋野さんに連絡し、久々にお会いしました。2人で街を歩き、多くの方々と朗らかに会話する姿を見て、椋野さんは地元に溶込み根差していると感じました。
地元での活躍、応援しています。

谷 均

元 東京大学クラスメイト 卒業後、三菱商事に入社し、その後独立
現在、㈱エクセ 代表取締役をしています ミャンマー、モンゴルで事業をやっています

 

 
椋野さんは、マドンナでした。
大学一年生から、ずっと憧れていました。
椋野さんは、上野丘高校から18才で東京大学の文科1類(法学部進学コース)に入学し、私は1浪して、19歳で同じく東京大学文科1類に入学しました。
 
クラスメイトとなり、フランス語の授業も一緒でした。
当時からクラスのマドンナで、頭脳明晰、男子学生の憧れでした。
試験の時にはノートを借りたり、答案を見せてくれたり、椋野さんに世話になったのは、私だけではないと思います。
 
大学を卒業し、椋野さんは厚生省に入省し、若手ながら責任者として厚生白書の執筆もしたと聞いています。
チャレンジする椋野さんを、心から応援します。
 

大西 珠枝

元文化庁文化財部長、元京都大学理事・副学長

 

椋野さんは厚生省(現厚生労働省)、私は文部省(現文部科学省)でしたが、国家公務員新人研修で出会った同期生で、まだ女性公務員が極めて少ない霞が関で、国のために働きたいという思いを抱く、いわば同志でした。

椋野さんが、福祉行政への熱い思いをもって、日々の仕事に飄々と取り組む姿に、随分刺激を受けましたし、休みの日には、旅行、美術館めぐり等に誘われ、楽しくお喋りをして、オンオフの切替えを上手にすることを教わりました。

椋野さんは、社会の変化をしっかり受け止め、課題の本質をとらえる鋭い視点を持っていて、前例にとらわれず、より良い方策を見つけようとして、厚生省の中だけでなく、広い視野で、できることを探し、自ら働きかけていました。

教育分野でも「それって、おかしくないですか」と首を傾げて、にっこりと課題を指摘され、私は、ドキッとしながら、頑張らねば、と大いに励まされる思いでした。 それぞれの省から女性で初めて市に出向した時には、福祉行政、教育行政の違いはあれど、国の縦割り行政にめげず、住民のための施策の工夫を語りあい、行うことができました。

椋野さんは、初めて少子化を取り上げた厚生白書で子供たちの教育について書き、大学で福祉人材の育成に携わり、地域の活性化のために文化活動支援に尽力するなど、人々のトータルの人生を豊かにすることを常に考えている人です。 地元の日田で、高い志をもって活動し続けている椋野さんを、これからも応援したいと思います。
 

榊原 智子

元読売新聞東京本社専門委員・現在、子どもと家族のための緊急提言プロジェクト事務局長

 

椋野さんとは、埼玉県浦和市の福祉部長をされていた時に新聞記者として出会い、それから30年、聡明で誠実、チャーミングなお人柄にずっと魅了されてきました。当時、介護サービスの整備が全国で課題となるなか、ケアハウス建築や訪問介護などを全国に先駆けて手がけ、“時代の風”をキャッチするリーダーがいると行政に変化が起きるのだ、と感じました。

厚生省に戻り、平成10年版「厚生白書」を手掛けられた時も、この方の仕事はスゴイ!としみじみ。この白書、少子化問題を深掘りし、「子どもを生み育てることに若者が『夢』を持てなくなっている」と鋭く警鐘を鳴らしたのです。若者や女性の視点から真相に迫るアプローチは鮮烈で、的を得ていました。高い知的能力と豊かな感性を併せ持つ椋野さんならではでした。

思えば、人口減少の危機が各地域で広がるなか、椋野さんのような知恵と感性を備えた人のリーダーシップが、今こそ求められていると思います。

田中 耕太郎

前・放送大学客員教授

 

椋野さんは、旧厚生省の4年後輩になり、付き合いはもう半世紀近くになる。官房政策課室長として執筆された平成10年版厚生白書は少子化をテーマに『子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を』という子育ての社会的支援を考える、当時としては先見性のある画期的なテーマで、大きな脚光を浴びた。
 
その後、2人とも大学教員になり、彼女の企画で新たなタイプの社会保障の教科書を作ることになった。立場や価値観を異にしながらも、「若い学生が自分で興味を持って考えるために何をどう伝えるか」という点で一致していたので、お互いの意見をぶつけ合いながら、議論と理解を深め合う楽しい作業になった。
 
この過程を通じて、改めてこの人の誠実さ、柔軟さ、そして何よりも「自分」ではなく「誰のために」働くのか、という立ち位置をブレずに堅持できる姿勢に全面的な信頼を寄せている。
 
こうして生まれた共著は、今年でついに第20版という驚異的なロングセラーとなった。椋野さんがその優れた資質を生かして、地域作りのためにさらに活躍することを期待している。

鹿苑 修

吉野こども園園長

保育園を経営していましたが、現役学生時代も含めまともに福祉やその制度・政策を学んだことがなく、機会があれば勉強したいと願っていました。

たまたま出席した保育園団体向けの講演会講師が当時大分大学教授だった椋野さん。雷に打たれるとはこういうことなのでしょう。これまで聞いた講演や読んだ本とは違い、漠然とした疑問が次々と氷解します。「勉強するならこのひとだ!」と大学院入試を経て、椋野ゼミ生となりました。

入学前、実は「厳しい先生」って噂を聞いていました。でも、おそるおそるゼミに出ると拍子抜け。いつもにこやかで私のつまらない質問にも丁寧に答えてくださいます。しかし、ご自身の仕事に対する厳しさをゼミやプライベートを通じて感じました。

また、もともと厚生労働省の官僚として政策に深く関わってきた方ですから、教科書にあるような通り一遍の話ではなく、政策の背後にある行政の深い意図や(世間ではなにかと悪く言われる)官僚としての真摯な姿勢なども伺うことができたのもゼミ生としての大きな収穫でした。

そんな椋野さんがご自身の力をさらに存分に発揮できる場でご活躍できることを元ゼミ生として心より願っています。
 

清水 さみ子  50歳代

元大分大学福祉科学研究センター事務

椋野先生のもとで大学の研究センターの事務職として働いた3年弱は、エネルギッシュに走り続ける先生の姿に圧倒される毎日でした。
 
センター内のメンバーは多彩でしたが、先生がそれぞれの話をしっかりと聞いてくださり得手不得手をうまくすくいあげた配置は絶妙でした。各人の持てる力を見極めて最大限発揮できる適材適所で、みな充実した仕事が行えていたと思います。
ちなみに私は主に事務書類の作成管理を担当していましたが、先生の経費等に対する真摯な向き合い方、クリーンさに、何より安心感と自信を持って仕事を進められました。

日々のフィールドワークや研究において次々と出てくる課題の解決へ向けて、アイデアと実践方法を学術的観点から提案するだけでなく、まちなかで実証されていく様子から「先生の頭の中には誰もが幸せに暮らせる理想のまちが構築されていて、その実現のための最善の方法を常に追求されているんだ。住んでみたいな」と感動したものです。
まさに今、先生の理想のまちづくりがいろんな人の声を活かして更にバージョンアップされて、始まろうとしています。それに安心感と自信を持って参画できるみなさんがうらやましいです。ぜひともがんばってください。
 

40代女性 大学教員

徹底した現場主義で夢を実現するひと
これが椋野さんです。
衰退する地方都市の再生プロジェクトでご一緒しました。地域課題を調査してその改善策を提案する…ここまでは、他の研究者も取り組みますが、椋野さんがすごいのは、なんとその提言を実現!したことです。

これは、国と地方行政の制度設計に精通されているからこその実現力によるものであり、私自身もとても良い勉強になりました。

また、この実現力をささえているのは、徹底した現場主義による、地域課題の見極めにもあると思います。地元はもちろん、国内外の先進地でも調査をされていました。

衰退するイギリスの小さな町々における市街地再生や、生活弱者支援を地域ぐるみで実現するまちづくりについて、住民や支える関係者まで、さまざまな方々の話に耳を傾けていました。

研究者といえば「机上で理論を考える」という印象を持たれがちですが、椋野さんは”超”現場主義の研究者であり実践者でした。

もう一つ、人を巻き込む力もこの実現力を支えていると思います。

いつの間にか、実現を支えるメンバーが椋野さんの周囲に揃っています。
1人で走らず、いろんな人を巻き込む。私も巻き込まれた一人ですが(笑)、コーディネート力も備えた方なのだと思います。
ぜひ日田の未来のために、その実現力を発揮頂きたいと願っています!
 

伊藤 みどり

NPO法人 全国移動サービスネットワーク

 

2011年に、大分大学の副学長だった先生から、高齢者等の移動の問題に関するオープンな研修会を開催したいと、講師派遣のご依頼をいただきました。

また、移動手段に困っている地域住民の話し合いに参加され、事例視察のご相談もいただきました。判断が早いのは頭脳明晰な方の共通点ですが、椋野先生は、きちんと聞き、住民や市町村職員が動き出すために必要な情報を求めて、ご自身も一緒に動く方なのだと思いました。

「近隣地域内、例えば自転車や徒歩で行く距離が移動できないような高齢者の日常の買い物や、公民館に行くための移動支援は、地域でのつながりを作りだすのには必須だと思っています」というお話は、私たちの課題意識とぴったり重なりました。

その後、2016年から7年間、調査研究事業の委員として、ヒアリング調査やパンフレット作成などにご協力いただきました。私は、つい制度を正確に詳細に書いてしまうのですが、制度に詳しくない市民にもわかるように、お名前を出さずに原稿を書いてくださったこともあります。

地域福祉の推進には、危機感と具体的な問題意識、地域に向けた温かいまなざしが必要です。椋野先生は、それらをお持ちの方だと思っています。
 

30歳代女性 自営業 

初めてお会いした時、まず第一に、笑顔のかわいい方だな、と思ったことを覚えています。しかしその柔らかさの中に強い芯があることをすぐに感じることができました。人の話に耳を傾けているときの表情が、真剣そのものだったからです。
 
椋野さんは「運転が苦手…」と言いながらどこへでも赴いてしまう、そのフットワークの軽さにもいつも驚かされます。大きな行事だけでなく、人目につきにくい地元の集まりやサークル活動などにも積極的に参加され、そこに根付く息吹を肌で感じ取ろうとしている姿が印象的です。百聞は一見にしかず、をまさに体現されている方です。
 
これからの時代、地方が活力もって生き抜いていくということは容易ではないかもしれません。しかし、私も日田の出身、この地にはいろんな業界の達人がいることを知っています。見識の広い椋野さんならば、公正な立場からスピードを持って、点と点を繋いでくれると確信しています。
 
今、日田市に必要なのは、日田の真価を発揮してくれるリーダーであり、それは彼女で間違いありません。私は椋野さんに日田の未来を託します。
 

女性 60歳代

4年前、友人から「親戚に東大出身で厚労省の官僚をしていた女性が市長選に出る。」と聞いたのが椋野さんを知るきっかけでした。

すぐに検索をし経歴等を確認。また、大分市長選挙での対立候補者との公開討論会をYou tubeでも見ました。

この方だったら「日田を変えてくれるかもしれない。」と淡い期待を持って、陰ながら応援をしました。しかし、残念ながら結果は僅差で落選。
「このままでは日田は衰退する一方。4年後にもう一度、出てください。」落選で傷ついている椋野さんの気持ちも考えずにすぐにお願いに行きました。

それからしばらくして大学教授等でお忙しい中、ジムでの体力づくり、精力的にイベントへの参加、地元の方がやっている習い事などに参加することで日田をより深く知ろう、一生懸命に溶け込もうとしている姿を見ました。

そして多くの市民と対話することで、市民が何を望んでいるのかもじっくりと耳を傾けていました。
「日田には良いものがたくさんありますよ。外に発信しないともったいない。」よく言われます。
椋野さんの見識とこれまで得られた幅広い多くの人脈で、必ずやってくれると信じています。

4年前の「変えてくれるかもしれない。」だったのが気力も体力もある椋野さんだったら、「絶対に日田は変わる。変えてくれる。」
どんな風になって行くのか今からワクワクしています。
 

木下 清秀 

4年程前妻の紹介で椋野みちこさんにお会いした。上野ヶ丘高校より東京大学法学部を経て、厚生労働省に入省、官僚として活躍された。凄い経歴の方である。何如知り合いなのか不思議で妻に問うと、月隈小学校(現・咸宜小学校)での幼友達との事であった。

椋野さんのお父さんは、白壁に沿って用水の流れる風情ある清水町の方で、淡窓町で農機具の会社を経営されていた。月隈小での二人の出会いはこの頃と思われる。
その後、事業の拡張に伴い家族で大分市に転居されたそうだ。
お母さんのお父さん、すなわち椋野さんの祖父は、川原町で酒造業を営んでいた原実三さんと知った時は驚嘆した。私の勤務していた中央発条工業(株)の社外重役で庶務課の私は役員会の時は車でご自宅までの送迎をしており知らない方ではなかったからである。

椋野さんが中城町の家の近くにルーテル幼稚園があったと話された時、この方は、日田が好きなんだなあと感情を動かされた。椋野さんが日田を愛する原点を見つけた気がする。

私の初対面の時、玄洋社の頭山満が好きと言わずもがなの事を云った。椋野さんは、即座に「人の考え方は十人十色です。その人の考え方で好悪は決められません」。そのような趣旨の事を話された。我意を得たりと、車の運転を志願した。

運転手をして感じるのは、愚痴を言わない、弱音を吐かない事である。体力には特に敬服する。起伏の激しい道を徒歩で何度も行き来し、山間の工事現場や、椎茸栽培場へ案内する現場の方と一緒に行ってしまう。ついて行けず私は車の内で帰着を待つだけである。

疲れたと一度も云いません。これが官僚魂ですか。知・徳・胆を備えた椋野みちこさん心より応援に参じます。

山田 和茂

元 東京大学クラスメイト 元、三菱商事株式会社(同社の事業投資先であった) 元、富士産業株式会社代表取締役社長

 
椋野さんは、東京大学ではじめの2年間を過ごした教養学部のクラス17D以来のクラスメイトです。クラスの女性は3人だけ、椋野さんはいつも明るく穏やか、更にみんなが頼れる安心感と安定感の有る女性でした。
 
東京大学で多くの時間を共にしましたが、椋野さんは当時未だ注目少ない「福祉の大切さ、弱者を思う、女性の社会進出」などを口にし意識していました。その思いから大学で勉学を重ね、厚生省に進み行政で実践し活躍、内に秘めた意志有る方だと私は常々感じています。
 
私は、数年前に仕事で大分県を訪問した際、地元に戻っていた椋野さんに連絡し、久々にお会いしました。2人で街を歩き、多くの方々と朗らかに会話する姿を見て、椋野さんは地元に溶込み根差していると感じました。
地元での活躍、応援しています。

谷 均

元 東京大学クラスメイト 卒業後、三菱商事に入社し、その後独立
現在、㈱エクセ 代表取締役をしています ミャンマー、モンゴルで事業をやっています

 

 
椋野さんは、マドンナでした。
大学一年生から、ずっと憧れていました。
椋野さんは、上野丘高校から18才で東京大学の文科1類(法学部進学コース)に入学し、私は1浪して、19歳で同じく東京大学文科1類に入学しました。
 
クラスメイトとなり、フランス語の授業も一緒でした。
当時からクラスのマドンナで、頭脳明晰、男子学生の憧れでした。
試験の時にはノートを借りたり、答案を見せてくれたり、椋野さんに世話になったのは、私だけではないと思います。
 
大学を卒業し、椋野さんは厚生省に入省し、若手ながら責任者として厚生白書の執筆もしたと聞いています。
チャレンジする椋野さんを、心から応援します。
 

大西 珠枝

元文化庁文化財部長、元京都大学理事・副学長

 

椋野さんは厚生省(現厚生労働省)、私は文部省(現文部科学省)でしたが、国家公務員新人研修で出会った同期生で、まだ女性公務員が極めて少ない霞が関で、国のために働きたいという思いを抱く、いわば同志でした。

椋野さんが、福祉行政への熱い思いをもって、日々の仕事に飄々と取り組む姿に、随分刺激を受けましたし、休みの日には、旅行、美術館めぐり等に誘われ、楽しくお喋りをして、オンオフの切替えを上手にすることを教わりました。

椋野さんは、社会の変化をしっかり受け止め、課題の本質をとらえる鋭い視点を持っていて、前例にとらわれず、より良い方策を見つけようとして、厚生省の中だけでなく、広い視野で、できることを探し、自ら働きかけていました。

教育分野でも「それって、おかしくないですか」と首を傾げて、にっこりと課題を指摘され、私は、ドキッとしながら、頑張らねば、と大いに励まされる思いでした。 それぞれの省から女性で初めて市に出向した時には、福祉行政、教育行政の違いはあれど、国の縦割り行政にめげず、住民のための施策の工夫を語りあい、行うことができました。

椋野さんは、初めて少子化を取り上げた厚生白書で子供たちの教育について書き、大学で福祉人材の育成に携わり、地域の活性化のために文化活動支援に尽力するなど、人々のトータルの人生を豊かにすることを常に考えている人です。 地元の日田で、高い志をもって活動し続けている椋野さんを、これからも応援したいと思います。
 

榊原 智子

元読売新聞東京本社専門委員・現在、子どもと家族のための緊急提言プロジェクト事務局長

 

椋野さんとは、埼玉県浦和市の福祉部長をされていた時に新聞記者として出会い、それから30年、聡明で誠実、チャーミングなお人柄にずっと魅了されてきました。当時、介護サービスの整備が全国で課題となるなか、ケアハウス建築や訪問介護などを全国に先駆けて手がけ、“時代の風”をキャッチするリーダーがいると行政に変化が起きるのだ、と感じました。

厚生省に戻り、平成10年版「厚生白書」を手掛けられた時も、この方の仕事はスゴイ!としみじみ。この白書、少子化問題を深掘りし、「子どもを生み育てることに若者が『夢』を持てなくなっている」と鋭く警鐘を鳴らしたのです。若者や女性の視点から真相に迫るアプローチは鮮烈で、的を得ていました。高い知的能力と豊かな感性を併せ持つ椋野さんならではでした。

思えば、人口減少の危機が各地域で広がるなか、椋野さんのような知恵と感性を備えた人のリーダーシップが、今こそ求められていると思います。

田中 耕太郎

前・放送大学客員教授

 

椋野さんは、旧厚生省の4年後輩になり、付き合いはもう半世紀近くになる。官房政策課室長として執筆された平成10年版厚生白書は少子化をテーマに『子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を』という子育ての社会的支援を考える、当時としては先見性のある画期的なテーマで、大きな脚光を浴びた。
 
その後、2人とも大学教員になり、彼女の企画で新たなタイプの社会保障の教科書を作ることになった。立場や価値観を異にしながらも、「若い学生が自分で興味を持って考えるために何をどう伝えるか」という点で一致していたので、お互いの意見をぶつけ合いながら、議論と理解を深め合う楽しい作業になった。
 
この過程を通じて、改めてこの人の誠実さ、柔軟さ、そして何よりも「自分」ではなく「誰のために」働くのか、という立ち位置をブレずに堅持できる姿勢に全面的な信頼を寄せている。
 
こうして生まれた共著は、今年でついに第20版という驚異的なロングセラーとなった。椋野さんがその優れた資質を生かして、地域作りのためにさらに活躍することを期待している。

鹿苑 修

吉野こども園園長

保育園を経営していましたが、現役学生時代も含めまともに福祉やその制度・政策を学んだことがなく、機会があれば勉強したいと願っていました。

たまたま出席した保育園団体向けの講演会講師が当時大分大学教授だった椋野さん。雷に打たれるとはこういうことなのでしょう。これまで聞いた講演や読んだ本とは違い、漠然とした疑問が次々と氷解します。「勉強するならこのひとだ!」と大学院入試を経て、椋野ゼミ生となりました。

入学前、実は「厳しい先生」って噂を聞いていました。でも、おそるおそるゼミに出ると拍子抜け。いつもにこやかで私のつまらない質問にも丁寧に答えてくださいます。しかし、ご自身の仕事に対する厳しさをゼミやプライベートを通じて感じました。

また、もともと厚生労働省の官僚として政策に深く関わってきた方ですから、教科書にあるような通り一遍の話ではなく、政策の背後にある行政の深い意図や(世間ではなにかと悪く言われる)官僚としての真摯な姿勢なども伺うことができたのもゼミ生としての大きな収穫でした。

そんな椋野さんがご自身の力をさらに存分に発揮できる場でご活躍できることを元ゼミ生として心より願っています。
 

清水 さみ子  50歳代

元大分大学福祉科学研究センター事務

椋野先生のもとで大学の研究センターの事務職として働いた3年弱は、エネルギッシュに走り続ける先生の姿に圧倒される毎日でした。
 
センター内のメンバーは多彩でしたが、先生がそれぞれの話をしっかりと聞いてくださり得手不得手をうまくすくいあげた配置は絶妙でした。各人の持てる力を見極めて最大限発揮できる適材適所で、みな充実した仕事が行えていたと思います。
ちなみに私は主に事務書類の作成管理を担当していましたが、先生の経費等に対する真摯な向き合い方、クリーンさに、何より安心感と自信を持って仕事を進められました。

日々のフィールドワークや研究において次々と出てくる課題の解決へ向けて、アイデアと実践方法を学術的観点から提案するだけでなく、まちなかで実証されていく様子から「先生の頭の中には誰もが幸せに暮らせる理想のまちが構築されていて、その実現のための最善の方法を常に追求されているんだ。住んでみたいな」と感動したものです。
まさに今、先生の理想のまちづくりがいろんな人の声を活かして更にバージョンアップされて、始まろうとしています。それに安心感と自信を持って参画できるみなさんがうらやましいです。ぜひともがんばってください。
 

40代女性 大学教員

徹底した現場主義で夢を実現するひと
これが椋野さんです。
衰退する地方都市の再生プロジェクトでご一緒しました。地域課題を調査してその改善策を提案する…ここまでは、他の研究者も取り組みますが、椋野さんがすごいのは、なんとその提言を実現!したことです。

これは、国と地方行政の制度設計に精通されているからこその実現力によるものであり、私自身もとても良い勉強になりました。

また、この実現力をささえているのは、徹底した現場主義による、地域課題の見極めにもあると思います。地元はもちろん、国内外の先進地でも調査をされていました。

衰退するイギリスの小さな町々における市街地再生や、生活弱者支援を地域ぐるみで実現するまちづくりについて、住民や支える関係者まで、さまざまな方々の話に耳を傾けていました。

研究者といえば「机上で理論を考える」という印象を持たれがちですが、椋野さんは”超”現場主義の研究者であり実践者でした。

もう一つ、人を巻き込む力もこの実現力を支えていると思います。

いつの間にか、実現を支えるメンバーが椋野さんの周囲に揃っています。
1人で走らず、いろんな人を巻き込む。私も巻き込まれた一人ですが(笑)、コーディネート力も備えた方なのだと思います。
ぜひ日田の未来のために、その実現力を発揮頂きたいと願っています!
 

伊藤 みどり

NPO法人 全国移動サービスネットワーク

 

2011年に、大分大学の副学長だった先生から、高齢者等の移動の問題に関するオープンな研修会を開催したいと、講師派遣のご依頼をいただきました。

また、移動手段に困っている地域住民の話し合いに参加され、事例視察のご相談もいただきました。判断が早いのは頭脳明晰な方の共通点ですが、椋野先生は、きちんと聞き、住民や市町村職員が動き出すために必要な情報を求めて、ご自身も一緒に動く方なのだと思いました。

「近隣地域内、例えば自転車や徒歩で行く距離が移動できないような高齢者の日常の買い物や、公民館に行くための移動支援は、地域でのつながりを作りだすのには必須だと思っています」というお話は、私たちの課題意識とぴったり重なりました。

その後、2016年から7年間、調査研究事業の委員として、ヒアリング調査やパンフレット作成などにご協力いただきました。私は、つい制度を正確に詳細に書いてしまうのですが、制度に詳しくない市民にもわかるように、お名前を出さずに原稿を書いてくださったこともあります。

地域福祉の推進には、危機感と具体的な問題意識、地域に向けた温かいまなざしが必要です。椋野先生は、それらをお持ちの方だと思っています。
 

30歳代女性 自営業 

初めてお会いした時、まず第一に、笑顔のかわいい方だな、と思ったことを覚えています。しかしその柔らかさの中に強い芯があることをすぐに感じることができました。人の話に耳を傾けているときの表情が、真剣そのものだったからです。
 
椋野さんは「運転が苦手…」と言いながらどこへでも赴いてしまう、そのフットワークの軽さにもいつも驚かされます。大きな行事だけでなく、人目につきにくい地元の集まりやサークル活動などにも積極的に参加され、そこに根付く息吹を肌で感じ取ろうとしている姿が印象的です。百聞は一見にしかず、をまさに体現されている方です。
 
これからの時代、地方が活力もって生き抜いていくということは容易ではないかもしれません。しかし、私も日田の出身、この地にはいろんな業界の達人がいることを知っています。見識の広い椋野さんならば、公正な立場からスピードを持って、点と点を繋いでくれると確信しています。
 
今、日田市に必要なのは、日田の真価を発揮してくれるリーダーであり、それは彼女で間違いありません。私は椋野さんに日田の未来を託します。
 

女性 60歳代

4年前、友人から「親戚に東大出身で厚労省の官僚をしていた女性が市長選に出る。」と聞いたのが椋野さんを知るきっかけでした。

すぐに検索をし経歴等を確認。また、大分市長選挙での対立候補者との公開討論会をYou tubeでも見ました。

この方だったら「日田を変えてくれるかもしれない。」と淡い期待を持って、陰ながら応援をしました。しかし、残念ながら結果は僅差で落選。
「このままでは日田は衰退する一方。4年後にもう一度、出てください。」落選で傷ついている椋野さんの気持ちも考えずにすぐにお願いに行きました。

それからしばらくして大学教授等でお忙しい中、ジムでの体力づくり、精力的にイベントへの参加、地元の方がやっている習い事などに参加することで日田をより深く知ろう、一生懸命に溶け込もうとしている姿を見ました。

そして多くの市民と対話することで、市民が何を望んでいるのかもじっくりと耳を傾けていました。
「日田には良いものがたくさんありますよ。外に発信しないともったいない。」よく言われます。
椋野さんの見識とこれまで得られた幅広い多くの人脈で、必ずやってくれると信じています。

4年前の「変えてくれるかもしれない。」だったのが気力も体力もある椋野さんだったら、「絶対に日田は変わる。変えてくれる。」
どんな風になって行くのか今からワクワクしています。
 

木下 清秀 

4年程前妻の紹介で椋野みちこさんにお会いした。上野ヶ丘高校より東京大学法学部を経て、厚生労働省に入省、官僚として活躍された。凄い経歴の方である。何如知り合いなのか不思議で妻に問うと、月隈小学校(現・咸宜小学校)での幼友達との事であった。

椋野さんのお父さんは、白壁に沿って用水の流れる風情ある清水町の方で、淡窓町で農機具の会社を経営されていた。月隈小での二人の出会いはこの頃と思われる。
その後、事業の拡張に伴い家族で大分市に転居されたそうだ。
お母さんのお父さん、すなわち椋野さんの祖父は、川原町で酒造業を営んでいた原実三さんと知った時は驚嘆した。私の勤務していた中央発条工業(株)の社外重役で庶務課の私は役員会の時は車でご自宅までの送迎をしており知らない方ではなかったからである。

椋野さんが中城町の家の近くにルーテル幼稚園があったと話された時、この方は、日田が好きなんだなあと感情を動かされた。椋野さんが日田を愛する原点を見つけた気がする。

私の初対面の時、玄洋社の頭山満が好きと言わずもがなの事を云った。椋野さんは、即座に「人の考え方は十人十色です。その人の考え方で好悪は決められません」。そのような趣旨の事を話された。我意を得たりと、車の運転を志願した。

運転手をして感じるのは、愚痴を言わない、弱音を吐かない事である。体力には特に敬服する。起伏の激しい道を徒歩で何度も行き来し、山間の工事現場や、椎茸栽培場へ案内する現場の方と一緒に行ってしまう。ついて行けず私は車の内で帰着を待つだけである。

疲れたと一度も云いません。これが官僚魂ですか。知・徳・胆を備えた椋野みちこさん心より応援に参じます。